ご存知、戦国時代の聖将、数々の逸話を残した「上杉謙信」。
「あぶらげ」の里 栃尾は、謙信公 旗揚げの地であります。
享禄3年(1530年)1月21日に越後守護代 長尾為景の四男として、現在の新潟県上越市にある春日山城で生まれました。幼名は虎千代で、寅年に生まれたことから名づけられたと言われております。
Copyright(C)2017 有限会社油屋久助商店 All Right Reserved
虎千代は栃尾宮沢の瑞麟寺 五世 門察和尚に預けられ薫陶を受けます。
七つの時には春日山城下の菩提寺「林泉寺」に入りました。
この林泉寺で天室光育禅師から厳しい禅の修業をうけました。天室光育禅師は幼い虎千代の才覚を見て取り、学問・兵法に至るまで深い知識や厚い信仰心を授けたといわれます。
 天文11年(1542年)12月に父 為景が亡くなると、越後はそれまで為景に押さえられ大人しくしていた北方勢力が反乱を起こし始めました。虎千代の兄・晴景が家督を継いでいましたが、いつ敵が攻めてくるか分からない状況の中、虎千代は鎧を着て葬式に出るほどでした。兄の晴景は病弱なこともあり越後の内乱を治まらず、情勢は不安定になっていました。
写真:春日山跡
敵対勢力が刻一刻と勢力を広げつつある中、長尾景虎は兄の晴景の命により家臣本庄実乃の守る栃尾城に入りました。この栃尾城は山に囲まれた山城のため攻めにくく、そして守るのとても適した地形であったため、古くから城が築かれ、父 為景の勢力にとって越後中央の要の拠点でした。揚北衆が南下するためには落とさねばならない城だったのです。

 まだ年少の景虎でありましたが、重臣本庄実乃は景虎の気鋭に長けた人物に惚れ込み、戦闘の指揮を委ねます。殺生を禁じ、仏道を学んできた景虎にとって戦いは悩んだに違いありません。
天文13年(1544年)、南下する揚北衆は、景虎を若輩と侮り、ついに栃尾城に対する攻略を開始します。
 まず敵から攻撃を仕掛けられますが、栃尾城とその周囲の地形、相手の陣容をとらえた景虎は、敵がどのようにどこから攻めてくるか、またそれにどのように応撃するか戦略を立て、栃尾城代の本庄実乃、三条城代の山吉行盛、栖吉城主の長尾氏らを連携し、敵を一掃し勝利しました。
天室光育の下で兵法を熟学した景虎は初陣で見事な勝利を飾りました。

さらに天文14年(1545年)、黒滝城主の黒田秀忠が景虎の兄である長尾景康を殺害し謀反を起こします。景虎は、病弱のため統率力の無い兄 晴景に変わり討伐するため総大将として指揮を執りました。
二度に渡り謀反を起こした黒田秀忠を鮮やかに討伐した景虎は、これまでの戦いによって評判となり、越後中にその名が知れ渡りました。

人々は「栃尾城に長尾景虎あり」と声をあげ、この後景虎は越後の覇者となりました。そしてやがては神の如き武将と言われた「上杉謙信」となってゆくのです。

まさに、「越後の龍」上杉謙信が、戦国武将として名を馳せてゆく旗揚げの地こそ、この「栃尾」でありました。
 越後を力でまとめていた父 為景のあとを継いだ晴景では北方の揚北衆や反為景勢力を抑えられず、反乱勢力は南下し長尾家家臣が守る栃尾に迫っていました。
天文12年(1543年)8月15日、14歳の虎千代は長尾家家臣や病弱な兄からの要請で仏門から還俗し元服、「長尾景虎」と名乗りました。
写真:林泉寺
写真:栃尾城 前景
写真:栃尾城 本丸跡
写真:栃尾城図
峻険な栃尾城から栃尾盆地を見下ろす
峻険な栃尾城から守門岳を望む